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■ぴーちのきながな毎日■


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偶然出会った過去

2007.10.30(21:46) 187

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♪街角で偶然出会った~とても…とても…遠い日♪
と言う小椋佳の古い歌を思い出した。

近くのスーパーに入ったとたんに、通路の遥か向こうに昔の親友の姿があった。
彼女とは、奇しくも引越してからも、近くに住んでいるので、今までも何度か偶然に出会っている。道ですれ違った事も数回…。

しかし、その日私は初めて彼女を「怖い!」と感じた。。。

今までは、私から近寄って行って挨拶したり、話し掛けようとしたが、無視されたり、姿を見ただけで逃げられたりしていたので、最近ではなるべく私も、知らない振りをするようにしていた。

私たちは、子供たちも含めて家族のように親しくしていて、一緒に旅行に行ったり、お互いの家で不幸があった時なども助け合って生きて来たので、こんな事態になるなんて夢にも思わなかった。

そして、このような事になったきっかけは、ほんの些細な第3者の事を巡って、私が彼女のプライドを傷つけてしまったためで、本当に申し訳ないと思っていたのだ。しかし、彼女は話しも聞いてくれなかったし、謝るチャンスも与えてくれなかった。断られた…。

私は彼女を許していた…と思っていた。だが、この日私は気付いた。私もとっても傷付いていて、本当はその傷口がうずいていて、許していなかったんだと。

私は家に帰ってから、イエスさまに心から本心で祈って、本当は彼女に傷つけられた事を許していなかった事や、傷口が痛い事を正直に話した。
イエスさまは罪を告白するなら、許して下さると知っていたし、そして彼女を許して愛する力も与えて下さると知っていたからだ。

正直に、自分を認める事は人間にはとても勇気がいるし痛い事だ。しかし、十字架で私の罪を負って下さったイエスさまだけは、私にその勇気と力を与えて下さる。

************************************
「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば
神は真実で正しいかたであるから、その罪を許し、
すべての不義からわたしたちをきよめてくださる」
(①ヨハネ1:9)
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無償の愛

2007.10.24(21:42) 186

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先日、夫は携帯を変えた。その前まで使っていたのが娘のお古のmovaだったので、新しい携帯にご機嫌だ。

しかし、夫は機能については、全く関心がないようだ。今日は伝言メモがあり、アイコンが待ち受け画面にあっても、気にしていない(笑)。
以前、息子がからかって夫の待ち受け画面に、楽天の「野村克也監督」を貼り付けて置いたが、笑いながらもそのまま最後まで変えなかった。
要するに、きれいでチャンと掛かって来てくればOK!なのだ。伝言メモも誰からか?分かっているので、気にしない(某損保会社以外にない…)。

私は性格が違う…と言うべきか?関心事項が違うため、そのアイコンが邪魔で仕方ないので、必死であちこちいじって、内容の分かっている伝言を聞いて消した。

夫が「教えて!教えて!」と言うので、教えたのだが私の予想では、覚えていないと思う(苦笑)。それは夫が物覚えが悪いからではなく、関心がないと知っているからだ。

そんな夫だが、パソコンのソフトでも、ネットでも仕事の事となると、すぐに使いこなしてしまう。そして設計書や申込書となると、すぐに出来てしまうのだ。
また、お金の還付金や返戻金の情報を新聞などで聞くやいなや、即!手続きしている。そのフットワークの軽さは感心するし、尊敬している。だが、彼はいわゆるケチではない。出費すべきところは気にせず出費し、いらない出費は押さえているだけなのだ。
今まで、この個性の違いで、何度「冷たい戦争」をした事か…。

夫と私だけでも、このように個性が違うのに、日本人のみんなや、世界中の人々を理解するのは、いかに至難の技か?と思う。

私たちが、お互いを理解し違いを認め合って生きて行くには、人間の本来の思いを越えたイエスさまの「愛(無償の愛=アガペーの愛)」以外にはないと信じている。

*******************************************
わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、
互いに愛し合いなさい。
わたしがあなたがたを愛したように、
あなたがたも互いに愛し合いなさい。
(ヨハネ13:34)

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アクシデント

2007.10.22(00:09) 185

ベゴニア


アクシデントがあって、頭を打った。頭を打ったのは、何年ぶりだろう。

人生の中でかなり沢山「頭を打つ=失敗して痛い目に合う」事はあったが、本物の頭を打ったのは、子供の時以来かな?…。

と思っていたら、風邪を引いてしまった。チョットやばい!( ̄▽ ̄;)と思った。
なぜなら、私は風邪を引くと必ず、酷い頭痛に悩まされていたからだ。今、頭痛がしたら、風邪のせいなのか?頭を打ったせいなのか?分からないと思った。

しかし、喉が痛くて熱があったのにも関わらず、ナント!頭痛がなかったのだ。私の、ここ十年以内の風邪史上、初めての事だった。よって、いつもにも増して、寝た…寝た…寝た…zzz。
「イエスさま。ありがとう!」

**********************************
「彼はみずから懲らしめをうけて
われわれに平安を与え、
その打たれた傷によって、
われわれはいやされたのだ。」
(イザヤ53:5)

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何処から来て何処へ

2007.10.16(00:14) 184

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数日前に、テレビを見ていたら、カンヌ映画祭で審査員特別賞を取られた女性監督が出ておられ、インタビューと作品紹介をしていた。

その方は両親を知らず、おばあさんの養女として育てられたのだが、専門学校に行っていた時に自分のアイデンティティーに目覚め、どんなに良い服を着て、良い車に乗っても埋める事の出来ない心の空洞に気付いて、恩師の言葉に従って自分の存在の意味を映画に撮って、探って行ったと言う。

自分が何処から来て、何処へ行くのか?と言う事だろう。そして、その間に大切な人を失う恐怖、自分が失われて行く恐怖などの体験をして、彼女の過去を探る作業は映画を通して進んで行く。

また、再婚して子供が与えられた事によって、自分が命の継承をする役目を与えられている事を知ったと言う。

最後に、彼女の口から出た言葉は、「目に見えないものによって、人は支えられて生きて行く生き物なんです。」…神さまのような…。

彼女は、神さまと言う言葉を使ったが、誰が神さまか?を知らなかった。森の神さま?映画の神さま?風?自然?…。

何の分野でも、その道を極めた人は、最後に行き着く所は神さまだと言う。数学学者。天文学者。医者。

神さまが生きていらっしゃると、認めざるを得ない程の、精密な世界があるのだ。今の時代にダーウィンの進化論を真剣に信じている専門家は少ない。
ダーウィン自身でさえ、晩年には進化論は間違いだったと言っていたのだから…。
*******************************
神の見えない性質、すなわち、
神の永遠の力と神性とは、
天地創造このかた、被造物において知られていて、
明らかに認められるからである。
(ローマ1:20)

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涙の意味

2007.10.15(01:42) 183

葉っぱ


今年は本当によく泣いた。去年は感謝!の年だった。今年は涙の年ではないか?と思う程に、泣いてばかりいた。

礼拝や祈り会に出席して、賛美を歌いながら、イエスさまへの感謝でいっぱいになり泣いた。何と言う愛だろう…感動と感謝でいっぱいになる。

また、病気の苦しみの中でも、よく泣いた。以前は泣く事すら出来なかったが、最近はイエスさまの前に出て、泣く事が出来る。
幼子のように「イエスさまぁぁぁ」と泣き疲れるまで泣いた。もう自分の力で、どんなに頑張っても、どうする事も出来ない苦しみの中だった。

そして、日めくり(娘が置いて出た子供用)の聖書の言葉を読んだ時に、イエスさまが私を忘れておられなかった事を知って、また感謝で泣いた。

**********************************
「主は、こう仰せられます。
『わたしはあなたの祈りを聞いた。』
あなたの涙も見た。」
(イザヤ38:5)

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出来る人?

2007.10.03(11:39) 182

毎日、充実した日々を送らせていただいている。

私は以前には、この充実感がなかったので、なぜ?今は充実していると感じるのか?考えてみた。

人は自分の責務を果たした時に、普通は充実していると感じるのだが、私の場合は「職場放棄」まがいの「家事放棄」をしている日が多い(苦笑)。
ただ、ただ、家族の理解と忍耐のおかげである。

では、なぜ充実しているか?と言えば、私は人間の本分は「何をしたか」ではなく「どうあるか」だと思うようになったからだ。
人間の本分は「本当の神さまを礼拝すること(賛美し、聖書からのメッセージを聞き、祈る)」だと思う。

そして毎日、イエスさまと一緒に生きて行く事が、しあわせの基準である。その中で、何かお役に立てれば感謝だと思うし、何も出来ない状況だとしても、変わらない愛で愛して下さるイエスさまが共におられるなら、しあわせだと思うのだ。

何か出来るか?出来ないか?で自分や他の人を判断しない方が良い。イエスさまと共に生きていれば、事の大小に関わらず、何か出来る人に必ずなるのだから…。

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2007年10月
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  2. 偶然出会った過去(10/30)
  3. 無償の愛(10/24)
  4. アクシデント(10/22)
  5. 何処から来て何処へ(10/16)
  6. 涙の意味(10/15)
  7. 出来る人?(10/03)
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