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■ぴーちのきながな毎日■


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そのままで…。

2007.03.26(21:35) 103

今、岐阜市にいる。

今朝から車で飛ばしに飛ばして、私のエネルギーの範囲内でたどり着き(かなり早く着いた・笑)、バイキングを食べた後は、ひたすら横になりたかった。危ない運転なのかも知れないが、平日で空いていたし、あれ以上時間がかかったら、私は途中でダウンしてしまいそうだったので、許していただこう。
でも、不思議な事にギリギリの所でアパートに付き、バタン!と寝る事が出来た。

昨日のメッセージも、すご~く!良かった。イエスさまは例え、いたらない所があっても、そのままの私を愛して下さっているのだ。良く見せようと、人と自分を偽る事を悲しまれる、愛あるお方なのだ。

私は十数年間、神さまと人と自分を裏切り続けて来た。結果は悲惨だった。
たくさんの人達を傷つけ、自分が誰かを見失い、イエスさまをもっとも悲しませてしまったのだ。それは、みんなを傷つけた。
だから、イエスさまはいつもどんな時にも、どんな私をも、そのままの私で受け入れて下さった。

そのための、十字架だったのだから…。
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謙遜

2007.03.26(02:43) 102

私は昔、ある方からいつも言われた言葉があった。

「もっと謙遜になりなさい!」

ところが、最初の頃はさておき、その頃は自分でも、私の「高慢」が鼻について苦しんでいた。だから、出来るだけ謙遜そうな振りをした(苦笑)。なぜなら、そもそも謙遜になり方が分からなかったのだ。
高ぶっているのは、自分でも分かる…しかし、どうしたら謙遜になれるか?は私に取っては、悩みの種となってしまった。

随分、いろんな事を通して叱られたが、遂に謙遜を学ぶより先に、私は倒れてしまったのだ。

何年か経ち、私も少しいろいろな事が落ち着き、また謙遜について考える余裕が出来た時に分かった事は、「人間には謙遜になる事など出来ない」と言う事だった。
「謙遜」や「愛」などは、元々自分の中にはカケラもなく、あるとしたら、それはイエスさまから与えられる物だと知った。

私の謙遜はイエスさまなのだ。(普通の言い方にすれば、イエスさまが私の謙遜…もっと難しい言い方になったかな?)

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「反省ザル」

2007.03.25(00:15) 101

私は時々、「反省ザル」になり過ぎる事がある。

何もかも自分のせいにして、悔い改めてしまうが、実はそれは一見、謙遜なように見えるが、不信仰な…自分を過信し過ぎである。
逆に、自分はいつも正しいと謝らない人もいる。昔、私は謝らないタイプの人間だった。謝ったら自分が無くなって、否定されたような怖さがあった。

実は本当は「反省ザル」も「頑固」も同じ「高ぶり」と言うルーツから来ているので、正しい幸せな状態とは言えない。

イエスさまから、気づかされたら「反省」して許していただき、それ以上はイエスさまの十字架の愛に感謝して、お任せするのが一番謙遜な姿だ。
全部、自分のせいにして謝り続けるのも、少しも反省しないのも、不自由で的が外れていると思う。両方共、イエスさまの愛を受け取っていないからだ。

ここにも、バランスが大切なようだ。イエスさまは優しい。。。

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叱責の意味

2007.03.24(20:42) 100

毎日何かに追われているように過ぎて行く。忙しい…と言うよりも、落ち着かないと言った感じだ。
目まぐるしく、日々が変わって行く。娘は今月はバイトと、夜はお別れ会に忙しい。娘の友達や息子の友達が、家の中に行き交う。変化に対応するのが苦手な私としては、静かな日々が懐かしい。

今日はまたまた娘を叱る羽目になってしまった。「しまった」と言ったのは、とてもエネルギーを使うので、言いたくない気持ちでいっぱいだったからだ。
言う方も言われた方も、楽しくはないだろう。だからと言って、次にこの事で学ぶ機会はいつになるかなぁ~って思ったら、今起きた時に気付けば、人生全体から見れば有益だろうと思う。後、二、三回同じような出来事があれば、大きな失敗しなくて済むかも知れない。

結局、去年の四月に監督との関係に苦しんだのは、同じ根っこに繋がっていたんだと分かれば、大きく成長できるだろうと思う。
監督が言っていた事の意味を娘は全く理解出来なかった。ただ、悪い人ではないと言う事はよく分かっている。ではなぜにあんなに注意を受けたのか?
それを本当に分かるまでには、まだ数年かかりそうだ。相手が悪いと思っている間は、どうやら物事が益とならないようだ。

そこにいる自分がどうか?と思う時に、相手が例えどのような人であったとしても、全ては益と変えられる。

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私の存在

2007.03.12(23:48) 99

私が鬱病になった意味を、昨日少し知る事が出来た。鬱病になった「原因」ではない。「意味」だ。

昨日、ある鬱病に苦しみ限界近くを歩んでいる人と、話しをする機会が与えられた。
彼女は有能で聡明な魅力的な人だが、いろいろな経緯を経て鬱病になり、数年が経った。その間、いろいろな癒し効果のある事や、ものにチャレンジしてこられたし、病院にもちゃんと通って薬もきちんと飲んでいるにも関わらず、波はあるが回復の兆しが全く見えず、途方に暮れてクリスチャンの親友に助けを求めておられた。

その人とはもう何度か会ったことはあるのだが、まだちゃんとゆっくり話した事はなかった。
しかし、ある日私の友達に彼女から電話がかかって来た時に、私も少し話しをした。すると彼女は突然に「私はぴーちさんに会えてよかったです!」と言った。
私ももちろんそう思っていたので、「私もですよ!」と言ったのだが、恥ずかしながら何故、彼女にそう言われたのか?心当たりがなかった。なぜなら私と彼女とは、そんなに何度も会った訳ではなく、携帯メールをしない彼女とは、深い付き合いがあった訳ではなかったからだ。

しかし、彼女は友達からいつも私の様子を聞いていたので、「どんなに苦しくても、イエスさまの愛に満たされて感謝して生きれる恵み」をいただきながら、望みを抱いて笑いながら生きている私に、自分の望みを重ねて下さっていたのだ。

私が今まで苦しみに合った事は無駄ではなく、誰かの希望となったのだ。私には彼女のうつ病苦しみ、家族との関わり、医師や薬についての悩みが、ほぼ理解出来る…かつ、どんな苦しみの中でも、真実なイエスさまの愛に感謝も出来るし、望みも抱いている。
だから、私が何か偉そうな事を話したからではなく、いつものようにバカ笑いをしている私の存在そのものが、お役に立てたらしい。

私にとっても、こんなに感謝な事は他にないと、更にイエスさまのご配慮に感謝した。

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「教会」って?

2007.03.11(05:10) 98

ここの所、あまり日記を書く気持ちになれなかった。
毎日が忙しいっていう程ではないが、生活のリズムが変化したので落ち着かなかったからだろうと思う。
娘と父の事…それに伴う人々との関わり…時間の拘束と変化に私の精神状態が付いて行けなかったようだ。

私に取っては、夫との喫茶店会議はもとより、Rieちゃんとの内面的な深い交わりは、欠かせないクリスチャン同士の楽しい一時だったが、お店のリニューアルに伴う営業時間の変化や従業員さんが入られた事などで、慌ただしい日々が続いた。
今週やっと、いろんな事が落ち着いて来たので、話し合ったり祈り合ったりしている。

クリスチャンでない方は「教会」っていうと、礼拝堂(チャペル)の事を指していると思われるだろうが、実際は「教会」は建物を言うのではなく、クリスチャンの集まっている所をキリストの教会と言う。だから、家族でも小さい教会だし、クリスチャンの友達と2、3人集まっている所が、すでに教会なのだ。
だから、その話し合ったり笑い合ったりしている時間は、教会に行っているのと同じ位に幸せだ。
そして、また毎週の教会が更に楽しみになる。先週のメッセージによって、今週新たに自分の事について気付いた事がたくさんあった。それは心に隠れていて、普通では気付かない事ばかりだ。

イエスさまは光であって、私の人生をいつも照らして下さるなぁ~と今日も思った。幸せな一日だった。

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人生の精算

2007.03.07(19:23) 97

3月5日
今、父の病室から携帯でカキコミしている。

先日、父は病室をこっそり出て徘徊したらしい。どうやら幻覚を見たらしく、危ないと思って逃げ出したようだ。見つかるとヤバイと思ったのか?パジャマも脱いで窓からベランダを通り非常階段を降り、最後には数メートルの高さから飛び下りた?らしい(三階から抜け出せる病院もちょっと問題ありかな?・苦笑)。
その時に肋骨を骨折して顔と頭を打ったにも関わらず、五百メートル以上離れた民家まで歩いて行って、パトカーに見つかり御用となった。

人に痴呆と言われたので、アルツハイマーではないか?と心配していたが、CTを撮った結果、やはりアルツハイマーではなく、脳梗塞のために起きてる現象との事だった。
私も父は手の麻痺も無くなって来たし、病院から抜け出した経路や見つかった場所など自分でも覚えていたので、認知症とは違う気がしていた。昨日の血管を通しての検査でも、血管の詰まりも良くなっていて、後は一部欠損している血管の手術を来月する事になった。

私は父の生涯を思っていた。私たちにとっては、いろいろ大変な思いをさせた父だったが、生い立ちやその後の結婚生活を思い巡らす時に、仕方なかった事もたくさんあったんだろうとも思えた。
しかし、誰しも自分の生涯の責任を他人のせいには出来ない。私は父を理解して許し、愛して行こうと思っているが、父は父でいづれ自分の人生の精算をする時が来る。

退院したら一緒に教会に行きたいと願っている。

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誤った道

2007.03.04(06:07) 96

この所、落ち着かない気持ちの日々が続いている。

理由は、私にしては「忙しい」と言う感じだ。漢字とはよく出来ているもので、心篇に亡ぼすと書くのは本当に的を得ている。
私にしては…と言うのは、普通の健康な人にしては、普通よりも怠惰な位だから。ちゃんとお昼寝もしている(苦笑)。

しかし、一月程前からだろうか?気忙しい。娘の受験。。。父の入院。。。などなど、数え上げればいくつかの要因はあるが、おそらく一番重要な事は、そう言う外面的な事ではなく、もっと内面的な事だろう。
夕べ、聖書を読んでいてハタッと思い当たるふしがあった。

人には見えない程、深い所で自分でも気付かない「高ぶり」「思い上がり」があった。自分でも気付かないと書いたが、自分が一番分からないのかも知れない。

事の発端はおそらく、母の知り合いの方に褒められた事からのように思う。母はその事は知らないが、私はちょっとした事で母の知り合いに気に入られた。もちろん好かれようと思ってした事ではないが、褒められるとうれしい。そこで図に乗ったらしい。
あまりに些細な始まりだったので、気付かずに今日まで来てしまったが、その後しばらく私はどこかちょっとづつズレた考えに捕われるようになり、自分らしさの領域を越えて誰かになろうとしていた。

しかし、感謝な事にクリスチャンは聖書と言う自分を写す鏡を持っているので、的を得た道を歩ませていただける。間違った所から「方向転換」して、元ある正しい道を歩ませていただけるのだ。
私は私で良い…私らしくイエスさまと共に歩ませていただこう!

「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(Ⅰヨハネ1:7)

■ぴーちのきながな毎日■


2007年03月
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  2. そのままで…。(03/26)
  3. 謙遜(03/26)
  4. 「反省ザル」(03/25)
  5. 叱責の意味(03/24)
  6. 私の存在(03/12)
  7. 「教会」って?(03/11)
  8. 人生の精算(03/07)
  9. 誤った道(03/04)
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