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■ぴーちのきながな毎日■


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オークション

2007.02.27(19:52) 95

オークション用の仕入れのために、オークションで買い物をしてみた。
以前、何回か買ったことはあるけれど、仕入れと言う感覚ではなく、欲しかったから買ったので、今回とは趣きが違う。
結果は・・・(笑)
大失敗!!!?だろうか?

今の所、私的には思っていたような良いものではなく、「う~ん。。。?」
「まあ、私が着ましょう!!」ってな感じだ。

でも、本当に失敗だったかは、もっと時が経たないと分からないだろうと思っている。なぜなら、今回はオークションを通してだが、物事の「良かったか?悪かったか?」はいつも、かなり時が経ってから分かる事が多いからだ。

私の友達にオークションが一度に百数十点、一度に削除された人がいるが、最初は意味が分からなかった。どうやら、ヤフーの細かい規約に触れたらしいのだが、普通に考えたら大層な理由でもない。
「どうしてこのようなコトが起きたか?」
いろいろ考えていたのだが、決め手となるような大きな理由は、その時にはわからなかった。しかし、いろいろな経緯を通して今はオークションではなく、お店が繁盛している。

これは一つの例えだが、「やれやれ~」と思うようなことの中に、何かじっくり意味を探るならば、必ず大きな「宝物」が隠れている。「宝物」は人によって違うが、「くそ~っ!」と、ケチったり腐ったりしなければ、それは何にも代えがたいプレゼントになるらしい。

と言ったわけで、私はオークションでの買い物の失敗を、とりあえず棚に上げて置く事にした。。。(苦笑)


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情報の選択の自由

2007.02.24(01:44) 94

どうやら最近、あまりにテレビを見なくなったせいか?テレビのついている部屋に長くくつろぐ事が出来なくなったようだ。

テレビが悪い訳ではないとは思うが、どうしても「否定的な話題」が多いからかも知れない。芸能人のスキャンダルに、それにたかるようなマスコミ…。コメンテーターの方が悪人っぽくて、いろいろ言われて気の毒だったりする。
アニメも殺人を軽く描写する場面が多いように感じる。
以前は、何となく普通に見ていたのに、この頃は耐えられなくて、すぐに自分の部屋に行ってしまう。

新聞や本、雑誌はある程度選ぶ事が出来るが、テレビは時に強引に入って来る所があると思う。もちろんチャンネルを変えればいいだけの話だ。しかし、家族といたり、ちょっとコマーシャルを見たために、続けてずっと見入ったりしやすい。新聞や雑誌は突然に耳に飛び込んで来たりしないが、テレビはその点で言えばやや侵略的だと思ってしまうのは、やはり私が変人だからか?(笑)

私は、毎日聖書ばかりを読んでいる訳ではない…(と言うか、もっと読んだ方が良いかなぁ?と言うレベルだが)新聞もたまには読むし(経済新聞が好き)、ファッション雑誌も見る(立ち読み・笑)。
アニメも、息子に強制されて?お勧めを見させられる(先日は何とかのファフナー?だったような・笑)。
ビデオは先日は「グッドウィルハンティング」を見た(これは結構好きだ)。

だから、自分の意思で見たり聞いたりするのは、何であれ誰でも自由にすれば良いと思う。
しかし自由と放蕩とは全く意味が違う。何でも自由に報道していいのか?と思う。他人と自分を引き下げることはしたくないと思うし、してはいけないと思うのだ。
また、もしどこかに強制力が働いているとしたら嫌な気分になる。
聖書にもこのような言葉がある。

「すべてのことはしてもよいのです。しかし、すべてのことが有益とは限りません。すべてのことはしてもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。」(Ⅰコリント10:23)

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手を伸ばしつつ

2007.02.20(02:31) 93

今日は何かの話しから「私は今までの人生で後悔した事はない」と気付いた。

それは、もちろん今までの人生が完璧だったと言う意味ではない。
失敗だらけ、恥だらけ、いたらない事だらけ…両親を始め家族にも、たくさんの人にも迷惑をかけて来た。
しかし、どの出来事も帰ってやり直したいとは思わなかった。それはもし、やり直しが出来たとしても、今ある私は過去の失敗の延長線上に生きているのだから、過去を訂正したとしたら現在の私がないように思うからだ。
私は、今の自分にして下さった神さまに感謝している。もし、失敗しなかった私だったら今の自分もありえない。

それに、所詮人間はどんなに悪かった事を訂正した所で大差はないと思う。本質的に持っている物は同じだから。しかし、人生の中で失敗、後悔するような事があったからこそ私はイエスさまに出会う事が出来たのだ。その方が、私に取ってはしあわせだった。

何はともあれ過去は帰らない。過去に傷付けた人には、一生頭が上がらないが許しを乞おう。そして現在から前に向かって手を伸ばしつつ歩もうと思う。

今後は失敗しないように気をつけて…でも、もしまた穴に落ちても手を取って下さるイエスさまとともに…。

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世界の中心?

2007.02.17(23:36) 92

我が家の自己中代表は言わずと知れた息子である。なぁ~んて断言している所を見ると、案外本当は私だったりする(-_-メ)当たらずとも遠からず…のようだ(苦笑)。
息子は我が家の壊し屋でもある。扇風機、ヘアーアイロン二個、ドライヤー、CDラジカセ二個、ドラム…安物のシンバルは裂けて割れた(┬┬_┬┬)太鼓の方は破れている(これは張り替え可能)。流石にメーカー物のシンバルは頑丈だ!リズム感よりもこの力を何かに活かせないものか?(笑)いづれ、息子が素晴らしい働きをする人に変えられる事を祈っている。
そうだった…自己中の内容は共有の物、もしくは妹の物を何でも自分の部屋に持って行くことだ。そして、壊す!(笑)

ところで、先日息子にも負けない自己中なバイクのおばあさんを見掛けた。彼女はひたすら道路の真ん中を走っていた。と前方に押しボタン式信号機が…中学生が自転車を押して青になるのを待っていた。
しばらくして私たちの前方の信号は黄色から赤に…。当然、中学生はゆっくり渡った。が、例のバイクのおばあさんが自転車に向かって走って行ったのだ!それもクラクションを鳴らしながら…ブップー!??(゜Q。)??
中学生はよろけながら渡り、おばあさんはまた堂々と道路の真ん中を走って行った…。

笑い事ではない。みんな事故をして見ればわかると思うが、ほとんどの人が自分を正しいと思う傾向があるようだ。酷い例では十字路の信号で出合い頭にぶつかった二人が、両者ともに「私は青だった!」と言っていた事だ。その時の事故処理担当者が電話で「日本にはそげな信号はないわね~」と言ったので、回りは大笑いした。

人はみな「自分は間違っていたとしても、正しいと言う」そして神さまであるイエスさまは「私が人の代わりに罪を負う」と言われる。
ここに、人間と神さまの大きな次元の違いを感じる事が出来る。

「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」(ビリピ2:6~9)

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しあわせの定義

2007.02.16(12:59) 91

今朝はビックリするほど、幸福感の中で目覚めた。

理由はよく分からないが、昨日から気分は良くて、母の携帯を変えに行く元気があったほどだった。母は明るいが、後ろ向き否定的な部分が多いので、話をしているととっても疲れるので、付き合うのは3時間が限度だったのだが、昨日は私の方から電話して半日付き合った。
話をしている時は、案の定家庭の問題をつついたように悪く話していたので、それを一つ一つ「全体的に見れば、良い家庭だと思うよ~」って事を、何度も何度も言っていたように思う。本当にいろんな事はあるけれど、実家は幸せな方だと思っているからだ。家族はみんな元気だし、子供たち二人も良い子たちだし、独立して働くようになって落ち着いているし、妹も口数は少ないけど、優しいし。。。

去年の甥の事故も、最悪の結果の中では一番良い方向に向かっているので、本当に恵まれているとしか言いようがない。相手の方が良い人で、もうすぐ示談が成立するだろう。相手の人の家族の方たちの事を思えば、実家は申し訳ないほど幸せだ。

しかし、人間ってものは、そう言う風に出来ているのだろう。重箱の隅をつつくように、しあわせの中にある不幸せを探しているようだ。私も調子が悪い時にはそうなので、気持ちは良く分かる。こんなにも恵まれているのだから、ちょっと位の不自由や至らなさは、大目に見ればいいと思うのだが、無い物を数える習慣になっているのだ。


本当は、よく見れば「至れりつくせり」の神さまの恵みを忘れて・・・もしくは知らずに、感謝せず後ろを向いて不平や不満、不安になっている事を「罪」と言うのかも知れない。


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★臨時休業のお知らせ

2007.02.13(04:53) 90

両立がきつくなったので、こちらの日記はしばらくお休みします…いつまで?(気が向くまで・笑)

「風吹く街で。。。」の方に日常の雑記を書いていますので、また見てやって下さいねm(._.)m

コメントもお気軽にお願いします(^O^)/

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人の思いと神さまの思い

2007.02.09(00:50) 89

私は今、マルコによる福音書を読んでいる。聖書を読んだり読まなかったりのグータラ!クリスチャンだが、最近テキストによって読みやすくなった。

ちょうど今はイエスさまがエルサレムに向かわれる所だ。今まではゆっくり歩いておられたのだろうか?弟子達の後を歩いておられたらしく、この日…。

「イエスは先頭に立って歩いて行かれた。弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚えた。」(マルコ10:32)

イエスさまには使命があったのだ。私たちの罪の身代わりとして、無実の罪のために十字架の刑を受けるのを目前にしておられた。だから、目をエルサレムにしっかり向け、先頭を歩まれたのだろう。
…しかし、そんな重大なことが起ころうとしているとも知らず、弟子たちはナント!地位争いをしていたのだ。抜け駆けしようとした二人の弟子に、他の弟子たちはプンプンのプン!
人類は今に至まで進化していると思っている方々。2000年前から人は変わらない争いをしているのだ。今の新聞をにぎわしている事柄は、ほとんど聖書の時代からあった。

神さまと人間とはかくも次元が違うものなのか?(-_-#)呆れて物も言えない…でも、そこはイエスさま。ちゃんと応えて下さっている。後に弟子たちの変えられる事を信じて…。
私たちは、どんなにしても全体や未来を見る事は出来ない弱く、かつ自己中心な者なのだ。

しかし、それでもイエスさまは私たちを愛して下さっている。本当に感謝だと思う。なぜなら、もし少しでも条件付きならば、私には愛される自信も資格もないからだ。

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謙遜な感謝の心

2007.02.07(01:39) 88

ここの所、身体はあまり調子が良くなく寝ている事が多い。でも、幸いな事に精神的には辛くなく体力的な問題だけなので、感謝だと思う。

大体、感謝出来る事自体が感謝だと思う。なぜなら生まれながらの私達は、不平不満を数えるのは得意なのだが、感謝を覚える事はある程度の人生経験を積んで、当たり前の事だと思っていた事が当たり前ではなかったと分かるようになってから、少しづつ感じるものだからだ。今でも油断すれば、直ぐに不満を数えようとしてしまう。

私など小さい頃から、生意気な子供だったので「私のために世界はある」と思っているか?のごとく自己中心的な性格で「~してもらって当たり前」だと思っていたので、当然の如く不平不満だらけで苛立ってばかりいた。

あれから数十年経ち、いろんな経験の中で頭を嫌と言う程打って、やっと自分の弱さといたらなさを知るようになったが、それでも本当の意味で謙遜になった訳ではない。ただ謙遜になるための心の準備が出来た程度だったのかも知れない。

本当の謙遜は、十字架のイエスさまに出会って、その愛の深さと真実さに触れた時に与えられる物だと思っている。その時おのずと感謝が生まれる。

世界中で一番高慢な人は言うだろう。「私はとても謙遜に生きて来ました」と。
それは「私は生まれてから一度も嘘を付いた事がない」と言う大嘘つきに似ていて、ある意味滑稽だ。

私は、ある方によって、とことん自分の中に謙遜のカケラもないと教えられた事に、今は感謝している(当時は痛かった…)。

結局、謙遜はイエスさまに属していて、与えられるものだとわかったからだ。

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ここに愛が…

2007.02.04(00:19) 87

今朝は珍しく落ち着いた気持ちの中で、穏やかな目覚めだった。
病気柄、寝起きは動悸を覚える事がほとんどだからだ。しかし、それも長年の習慣になっているので、普段もう驚く事もない。

しかし今朝は違っていた。起きたと同時に、聖書の言葉が浮かんで来たので、急いでノートに書き留めた。

「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。」
(第一ヨハネ4:10)

今日はそれから起きて、夫と喫茶店に出掛けていろんな話しをしたのだが、私の体力電池がもたなかったので、早めに切り上げて帰った。
最近、我が家は娘の大学費用を巡り窮地に立たされている。予想よりも遥かに早く手数料率が下がり、折りからの地方公共事業切り捨てによる、建設業者の解約も痛かった。
夫の苦しみも分かるので、私ももう少し動けないか?と試みていたが、今以上に動けば体力電池の消耗が早くなるだけで、かえって寝込む時間が長くなるだけだとわかった。
動悸と戦いながら寝て居て、私は今朝の聖書の言葉を繰り返し思っていた。

私が頑張って神さまを愛したり信じたりしているのではないのだ。神さまが先ず私たちを愛して下さっているのだから、私はもう全面的に委ねる事に決めた。もし、決めなかったとしても私の身体は動く訳でもなく解決する訳でもないのだから、「ここに愛がある。」と言われるイエスさまの愛に委ねて行こうと思う。

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ひそかな願い☆彡

2007.02.03(04:33) 86

夕べもまた親友と話し込んでいた。私たちの話しに限界などない(笑)。なぜならイエスさまに限界がないからだ。

私たちは、いつもいつもイエスさまの話しをしている訳ではないが、根底にある考え方や生き方の基本が聖書にあるので、それを抜きにして話しをすることは難しい。
同じクリスチャンの中でも、必ずしもこのように何でも話したり相談したり、意見を言ったり、また聞いてもらえる人は少ない。クリスチャンにもいろんな個性があるからだ。
しかし私には、このような類い稀にみる親友が与えられた事を、心から神さまに感謝する。

実は数年前、私には一つの願いがあった。それは「真の親友がほしい」と言う事だった。当時、私には自他共に認め、回りの誰にも知られている親友がいたのだが、大きな価値観の違いがあり惰性での付き合いになっていたので、本心では内面的な話しの出来る友達を、ひそかに求めていたのだ。
彼女とは、どちらかが何か言ったら二度と取り返しの付かない関係になると予想出来たので、お互いに核心部分には触れないようにしていた。
しかし、そんな時にひょんな事から絶交にまでなってしまったのだ。最初は、修復しようと頑張ってみたが、予想通りそれは無理だった。泣いた…。

その数年後…私は今の親友に出会った。彼女には素晴らしいところはたくさんあるが、一番は「イエスさまをこよなく愛してる事」だ。クリスチャンなら誰でもイエスさまが好きだが、彼女の思いは純真で幼子のような可愛いらしさがあるのだ。

私たちは、ほとんどの時間笑っている。そして、後はいろんな問題を持っている人たちに、幸せになってほしい!と言った話しをしている。

もちろん、お店の話しやオークションの話しも欠かせない話題だ。こんなにも、多彩な話しのできる友達が他にいるだろうか?

イエスさまは私に素晴らしい友達を与えて下さった。それは、あの日の私のひそかな願いに応えて下さったのだと思っている。

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決して…

2007.02.01(00:40) 85

「主(イエスさま)は、『わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない』と言われた。」
(ヘブル人への手紙13:5)

私が教会を離れていた時に、いつも私を支えていた聖書の言葉は、この箇所だった。
元々、小さい頃から疑い深い子供だった私は、大人の様子を半分怯えながら、冷静に把握しているような人間だったから、人の愛を信用していないところがあった。
しかし教会に行き始め、大好きな先輩(女性)が好きだったこの言葉を聞いた時に、私はこの世に「決して=絶対」がある事を知って嬉しかった。私の求めていたものは絶対的な愛だったからだ。しかし、そんな物がこの世に存在するはずもないと諦めていた。
決して捨てない…どこかで私は見捨てられる不安を持っていたように思う。それは生い立ちにも関係しているが、のちのちまで後を引くものとなった。

そして、まさに私が見捨てられていた状態の時に、最後まで私の心にあったのがこの言葉だった。
この世に、絶対!と言われるものなどないと思う。昔、正しいとされて来た事が、今では間違っていた…なんて事はよくある話だ。アメリカの正義も絶対ではなかった。状況によって変わるものは絶対とは言えない。いつかは滅びるものだからだ。

それを言えるお方は、本当の神さましかいないだろうと思う。

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2007年02月
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